エホバの証人にまつわる歴史探求ブログ

方向性については現在思案中

教理年表

組織化以前

1869年
チャールズ・テイズ・ラッセル18歳。ペンシルバニア州アレゲーニー(現、ピッツバーグ市内)で、アドベンティスト派の牧師ジョナス・ウェンデルの説教を聴き、聖書への確信と情熱を取り戻す(76年鑑 P34-35、告 P43)

1870年
ピッツバーグアレゲーニーに暮らす、6人の若者達による聖書研究会が組織される(告 P44、76年鑑 P36)

1870-1875年
不滅の魂の否定。他、キリストの再来は目に見える再臨ではなく、目に見えない臨在であるとの結論に至る(告 P44-45)

1872年
贖いと革新(アダムの罪のゆえに失われたものの回復)の関連性に着目。ラッセルは贖いの教理の重要性を大きく認識する(告 P131,46)

1876年1月
臨在について述べる『朝の先触れ』誌(編集者:ネルソン・H・バーバー)に見解の共通性を見出したラッセルは、「時に関する預言が、実際には、主が王国を設立するために見えない様で臨在する時を示すためのものであったという事があり得るだろうか」との一つの可能性に辿り着き、これまで軽蔑してきた年代計算に熱烈な興味を抱く(告 P46)
※「軽蔑」の語は差別的表現とも言えますが、意味を正確に伝えるために、あえて原典の表現をそのまま使用しています

1876年
ラッセルは宣教を開始する。蒔いた種に水を与える必要があると感じた彼は、月刊誌の果たす役割に着目し、資金難から休刊していた『朝の先触れ』誌の復刊を援助し、自らも副編集者として寄稿するようになる(告 P47,48)

1876年
『バイブル・イグザミナー』誌(編集者:ジョージ・ストーズ)、10月号において、ラッセルは「異邦人の時の終わり」が1914年であるとする見解を示す(告 P135)

1879年5月3日
革新の概念を否定するバーバーとの確執が決定的なものとなる。『朝の先触れ』誌からの撤退(告 P47-48,131)

1879年7月
ラッセル自身が編集責任者を務める『シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者』誌の創刊(告 P47-48)

組織化以降

1879-1880年
少人数のクラス、あるいはエクレシア(会衆)が設立される(年鑑76 P38-39)

1881年2月16日
ものみの塔聖書冊子協会の設立(告 P576)

1881年4月
コルポーター(聖書文書頒布者)の募集が始まる(告 P284)~宣教は自発的参加

1882年6月
三位一体の否定(告 P123-124)

1886年4月28日
アレゲーニーにおいて、主の記念式が初めて祝われる(告 P55)

1886年
『世々に渉る神の経綸』において、聖別(献身)の解釈が示される(告 P291-292,719)

1889年?
地獄の否定(告 P128)

1895年11月
成員の増加に伴い、会衆を指導する長老の必要性が示される(告 P205-207)~選挙による地元選出制

1904年
『新しい創造物』において、会衆を清く保つために必要な処置を取る必要性が説明される(告 P186-187)~排斥の手順が示されるまでの間、教会裁判の規範となる

第一次世界大戦中(1914-1918)

1916年
ラッセルは長老の選出時に一部で見受けられる醜聞に懸念を表明(告 P208-209)

1916年10月31日
初代会長ラッセル死去(告 P64)

大戦後

1919年
長老とは別に、奉仕の主事が協会から任命される。奉仕報告の始まり(告 P212)

1920-1926年(目だった教理上の変化は無いものの、宣教の必要性が盛んに喚起された時期)

1926年1月
神のみ名をどう扱うべきかに関して注意が向けられる(告 P124)

1929年6月
上位の権威の理解の調整。上位の権威とはイエス・キリストを指すと解される(告 P147)~兵役拒否の実質的教理化

1931年7月26日
エホバの証人の名称が採択される(告 P155-156)

1932年
『証明』第3巻において、エホバの証人以外に、地上での生活を享受する者がいると解説される(告 P83)~ヨナダブ級

1934年8月
ヨナダブ級もバプテスマを受けるべきであるとの見解が示される(告 P83)

1935年5月
ヨナダブ級は大群衆であるとの見解が示される。また、エホバの証人と同じ責務を負うとも説明される(告 P83-84)

1935年
『忠節』において、神以外へ身をかがめる事を非とする十戒の言葉に注意が向けられる(告 P197)~国旗敬礼を偶像崇拝と位置づける

1938年2月
主の記念式に、ヨナダブ級も「見守る者」として出席するよう招待される(告 P243)

1938年6月
長老の認定方法が、協会からの任命制へと改められる(告 P218-220)

第二次世界大戦中(1939-1945)

1942年1月8日
2代目会長ラザフォード死去(告 P89)

1942年7月
大群衆もまた、エホバの証人であるとの見解が示される(告 P83)

1942年9月18-20日
緋色の野獣(国際連盟)は再び起き上がるとの見解が示される(告 P262、啓示 P246-8)

1942年9月24日
海外宣教の担い手を育成するための取り決めが、理事たちの満場一致で承認される(告 P94-95,522)~ギレアデ

1944年5月
排斥を審理する際の手順が定められる(告 P187)

1944年12月
輸血に関する否定的見解が示される(告 P183)

大戦後

1947年1月
一夫多妻制の否定。事態に対処するための6ヶ月の猶予期間が設けられる(告 P176)

1961年
輸血を拒否しない者に対し、排斥が適用されるようになる(告 P184)

1962年11-12月
上位の権威の理解の再調整。政府への相対的な服従との概念が示される(告 P147)

1967年
一部地域で始まっていた、バプテスマの資格の有無を審査する取り決めが、世界的に適用されるようになる(告 P479)

1973年9月
喫煙者に対する最後通牒。事態に対処するための6ヶ月の猶予期間が設けられる(塔73 9/1 P531-534、宣 74/2 P3)


教理のおおまかな変遷はこんなところでしょうか。年代の特定に至っていない一部教理(バプテスマ、宇宙主権の論争)などはあえて記述していません。なお、年代計算絡みの教理の変遷についてはあえて取り上げておらず、今後も取り上げるつもりはありません。そうしたものはむしろエホバの証人の反対者が好んで取り上げる傾向があり、年代計算に特化した年表というのは探せばいくらでも見つかるからです。

エホバの証人の教理について考える際に重要となるのは、教理が流動的であるという事です。これは、過去の同じ言葉に現在の解釈をそのまま当てはめると、全く的を外したものになりかねない、という事をも意味します。例えば「エホバの証人」という言葉1つをとっても、最初は天的希望を抱く者だけがエホバの証人でしたが、後にこの表現は地的希望を抱くヨナダブ級を含むようになり、さらに近年ではバプテスマを受ける前の伝道者はもちろん、まだ伝道者の資格がない人であっても、本人がエホバの証人であると自認しているならば、その人もまたエホバの証人である、という解釈へとシフトしています。

時折、アドベンティスト派という部分を全てセブンスデー・アドベンチスト派に置き換えて説明する人もいますが、単に「アドベンティスト派」とだけ表現される場合には、ウィリアム・ミラーの再臨思想に影響を受けて誕生した数々の教派が含まれるのが普通で、そうした説明は事実と異なる可能性がある事にも注意する必要があるでしょう。例えば『朝の先触れ』の表紙を見たとき、明らかにアドベンティスト派と思われる、とラッセルは述懐していますが、著者のバーバーはセブンスデー・アドベンチスト派が重視しているはずの贖いを軽視し、さらに再臨とは異なる臨在という思想を唱えている事からして、ミラー派に属する人、と捉えた方が妥当であろうと思われるのです。