エホバの証人にまつわる歴史探求ブログ

方向性については現在思案中

源流を探る(番外編)-信仰義認、ルターの宗教改革と宗教対立形成の過程

エホバの証人とはほとんど、全くといっていいほど関係ありませんが、ちょっと根が深い問題のようなので、まとめてみることにしました。まず、対立構造の形成過程についてですが、これは年代順に羅列してしまいます。そうしたほうが理解が早いと思いますので。


1511年、エラスムスは『痴愚神礼賛』を発表。後にこれはカトリックにおける禁書となる。

時期不詳、ルターはローマの聖句の研究から、信仰による義認との閃きを得る。後にこれは「塔の体験」と呼ばれる。

1516年、エラスムスによるギリシャ語訳聖書(新約のみ)が発行される。

1517年10月31日、贖宥状販売の問題をめぐってルターがまとめた『95ヶ条の論題』の中に義認の主張が盛り込まれる。ラテン語で書かれていたこの『論題』は一般人には理解できないはずであったが、ルターの意思とは裏腹に、ドイツ語訳が作成され、1518年1月には頒布されるに至る。こうしてルターの信仰義認という考えが大衆にも周知される。なお、ものみの塔87年9月15日号P27ではその後の展開として、14日間でドイツ全土に、4週間でキリスト教世界全体に広まったとするフリードリヒ・エーニンガーの言葉を引用しています。

1518年4月、ルターは総会で自説を熱弁、教皇にも意見書を送る。神学者シルヴェストロ・マッツオィーニがこの意見書を精査し、教皇の権威を揺るがしかねないとルターの思想の危険性を指摘、その回答はルターにも送られる。

1518年、レオ10世の教皇勅書によって、それまで曖昧だった贖宥の定義が明確に示される(塔87 9/15 P28)

恐らくこの頃、ルターが自分を尊敬している事実を知っていたエラスムスは、信仰義認との考えに賛同すると共に、分派を作らないようにと忠告する。

1518年、エラスムスカトリック内部の腐敗を風刺する論文、『対話集』を発表(塔82 12/15 P10)

1519年7月、「ライプチヒ討論」。1週間に及ぶヨハン・エックとの公開討論会において、ルターは教皇の権威を否定し、コンスタンツ公会議で異端とされたヤン・フスの主張の一部を擁護。この討論会は事実上、ルターの敗北であったとの見方が強い。

1520年、ルターは、『ドイツ貴族に与える書』(万人祭司)、『教会のバビロニア捕囚』、『キリスト者の自由』の宗教改革三大文章、後のプロテスタント信仰の基盤となる論文を次々と発表。『バビロニア捕囚』はラテン語で書かれていたが、ルターの思想の過激さを世間に知らしめる目的から反対者の手によってドイツ語翻訳され、かえって民心を煽る結果となる。

1520年6月15日、教皇レオ10世は大勅書を発布。異端の書物の印刷・販売・閲覧を禁止する(塔95 4/15 P11)

1520年12月10日、ルターは勅書を公衆の面前で焼き捨てる(目84 12/8 P22、探求 P316)

1521年、イタリア戦争勃発(~1525年、対フランス戦)

1521年、ルターはカトリックから破門される。

1521年、ヴォルムス帝国議会神聖ローマ皇帝カール5世の要請に対し、ルターは自説の撤回を拒否。帝国アハト刑(事実上の死刑宣告)が適用される。

1521年、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世は「誘拐」との名目でルターを居城に匿う。軟禁状態に置かれたルターは、ドイツ語訳聖書の翻訳を開始する。戦争への影響も懸念されたため、皇帝側としては強く反対できなかったのであろうというのが一般な見解。

1522年、ルターはエラスムスによるギリシャ語訳聖書を元に作成した『9月聖書』(新約のみ)を完成させ、ユンカー・イェルクの偽名を用いて頒布を開始する。

1522年、エラスムスによるコンプルートゥム多言語訳聖書(聖書全巻)の完成(塔82 12/15 P10)

1523年、教皇ハドリアヌス6世は教皇庁内の腐敗を認め、ローマ教皇庁の改革を提案する(塔98 3/1 P4)。~ここで提起されたのは、贖宥・結婚の解除の2点

この頃までに、エラスムスの影響を受けたとされるツヴィングリらによるスイスの改革派の問題も顕在化する。改革派における宗教改革の波は、実際にはルターの改革と平行するように起こっているが、こちらは政治的な地盤固めを推進する事によってカトリックの勢力を徐々に排除していく形で成立したようであり、成立年を明確に述べている資料は存在しないようです。ハドリアヌス6世の示した「結婚の解除」とは、改革派への譲歩か?

1524年、ドイツ農民戦争(~1526年)。ルターの思想に触発された農奴たちによる蜂起であったため、ルターは彼らに同情し調停を試みるも、調停が不調に終わると一転、諸侯に対し「狂犬と同じように」打ち殺すようにと鎮圧を勧告する(目79 12/8 P8)

1524年、エラスムスは『自由意志論』を著し、信仰義認は善行を無にする教えであり、神への猜疑心、ならびに、人々を絶望へといざなうものであるとして批判。塔82年12月15日号P11はその根拠について、「人間に自由意志がないとするならば人は自分の救いに通ずるような仕方で行動できないことになり,神を不義な方にすることになる」と説明しています。

1525年、改革派の、国家の権威を認める思想に同調できない者たちが分離独立、再洗礼派と総称される様々な分派を形成していく(目89 8/22 P19)

1525年、ティンダルの英語訳聖書(新約のみ)がケルンで発表される。この聖書もエラスムスによるギリシャ語訳聖書を元に作成された。

1525年6月、ルターは元修道女、カタリナ・フォン・ボラと結婚する。

1525年末、ルターは『奴隷意志論』で、エラスムスが前提とした自由意志そのものの意義を否定。

1526年、エラスムスはさらに『反論』を著す。

1526年8月、第一回シュパイアー帝国議会オスマン帝国に対する脅威から、ルター派への譲歩案が示される。

1529年4月、第二回シュパイアー帝国議会。前回の譲歩案が取り消される。ルター派はこのことに抗議、プロテスタント(抗議)の語が初めて使用される。

1529年、ヘッセン方伯フィリップ1世(寛大伯)の招きに応じ、マールブルク城においてルターとツヴィングリの会見が実現する。聖餐の解釈をめぐって、ルターとフィリップ・メランヒトン、ツヴィングリとエコランパッド、双方の主張の溝は埋まらず、フィリップ1世は両者が合意をみた信条のみ書面にまとめる事を提案する(目70 5/22 P20)。まとめ上げたのはメランヒトンで、これが「アウクスブルク信仰告白」の草案となったらしい。

1530年、帝国議会にて「アウクスブルク信仰告白」の草案が提示される。皇帝側はこの受け入れを拒否するも、事実上、初のプロテスタント教会がここに誕生する。

1531年、カトリックによる資産返還要求が皇帝に承認される。資産返還を拒むルター派勢力によって反カトリックを掲げるシュマルカルデン同盟が成立し、カトリック追放の動きがドイツ国内で広まる。翌年にはフランスもこの同盟に加わる。

1531年、ツヴィングリによる『チューリッヒ聖書』(聖書全巻)の発表。

1531年、チューリッヒによる経済封鎖に耐えかねたカトリック5州がカッペルに進軍。10月11日、ツヴィングリ戦死。

1534年2月23日、再洗礼派がミュンスターの実権を掌握する。

1534年、『ルター訳聖書』(聖書全巻)が一応の完成をみる。

1534年10月、「檄文事件」。それまでプロテスタントに対して寛容であったフランスは、弾圧する側へと転換する。

1534年11月、ヘンリー8世の首長令が制定される。イングランドカトリックと決別する道を選び、英国聖公会が誕生する。

1535年7月、エラスムスの盟友、トマス・モアは首長令への宣誓を拒み、斬首刑に処される。

1536年3月、カルヴァンは『キリスト教綱要』を発表(予定説を含む)。

1536年7月、エラスムス死去。

1536年10月、ティンダルは焚刑に処される。

1542年、イタリア戦争再燃(~1546年、対フランス・オスマン帝国戦)。これに呼応するようにシュマルカルデン同盟が蜂起。

1543年、ザクセン公モーリッツが選帝侯の地位を条件にシュマルカルデン同盟から離脱。皇帝側に味方する。

1546年2月、ルター死去。

1546年7月、シュマルカルデン戦争(~1547年)。ルター派勢力の敗北。

1548年5月、カトリック側に有利な条件で、アウクスブルク仮信条協定が締結される。

1552年3月、仮信条協定の受諾に応じないマクデブルクを攻めるよう指示されたモーリッツは、フランス王アンリ2世と手を組み、皇帝カール5世を攻撃し敗走させる。

1552年8月、バッサウ条約の締結。ルター派が容認される。

1555年9月、アウクスブルクの和議。ルター派の容認が議決される一方で、カルヴァン派(改革派)は引き続き糾弾される。

1559年6月、カトリック信者として育ったオラニエ公ウィレム1世は、スペイン王フェリペ2世によるプロテスタント信者虐殺の計画をフランス王アンリ2世から告げられると、本心を秘したまま領地へと戻り、虐殺の実行部隊との説明を受けていた駐留中のスペイン軍に対する駐留反対運動を煽る。後にオランダ独立の父と呼ばれるようになるウィレム1世は、この故事から「沈黙公」の名でも知られるようになる(俗説)。

1562年、ユグノー戦争(フランス)。1572年のサン・バルテルミの虐殺が有名。

1562年、贖宥状の販売が禁止される(塔87 2/15 P21)。この時禁止されたのは販売だけで、贖宥の授与に関しては近年まで続いているとの事。どれくらい近年までなのかというと、教皇の名において年3回行われる贖宥について、TVやラジオの生放送なら有効で、録音されたものは無効との規定まであるらしい。現在の最新の実情に関しては不明です。

1563年、トリエント公会議において、信仰義認が糾弾されるに至る。

1567年、アンリ2世の要請により、アルバ公がネーデルラント総督として赴任する。異端審問が強化される。

1568年8月31日、沈黙公はアルバ公に宣戦布告、八十年戦争が始まる。

1618年、三十年戦争(ドイツ)の始まり。


う~む、エラスムスの影響半端無いっす。その他、ポイントとなる出来事についていくつかコメントをば。

1518年4月、総会で自説を熱弁
カトリック側の視点からすれば、これはルターが自ら進んで墓穴を掘ったとの見方も可能です。なぜなら文字通りの分派工作ですので。一方、宗教改革を支持する側からすれば、「石が叫ぶ」の聖句の通り、黙って見過ごす事などできなかったのだ、という事になるのでしょう。

1519年7月、「ライプチヒ討論」
こちらはカトリックの側がルターを積極的に追い詰めた、と言い換える事ができるかもしれません。この出来事さえなかったならば、まだ穏便に丸く収める事も可能であったのではないかと。カトリック寄りの主張をする人達の間では、このあたりからの批判が目立つように思われます。

1523年、教皇ハドリアヌス6世の改革
両者の分裂は1521年ルターの破門の時にすでに決していたと言ってもいいわけですが、ものみの塔はこのハドリアヌス6世の行動を、事態を収拾するためのものとして説明していました。結果、枢機卿達の反対に遭って改革は頓挫したわけですが、破門それ自体は前任者の決定ですし、新教皇がそれを取り消す事も視野に動いたとの見方も確かに可能であるのかもしれません。この教皇の在位がもっと長ければ、また違った帰結となったのかもしれませんね。

1559年、沈黙公の蜂起
もしこれが真実であるならば、政治色の一切無い、教派そのものを理由とした戦争(というよりも一方的な虐殺)が行われようとしていたという意味で特筆に価する出来事といえるかもしれません。が実はこれ、wikipediaの日本語版ではそもそも言及がなく、英語版では僅かに触れられているものの出典がありません。また、オランダ語版では多くの歴史家がこれを疑問視していると説明しており、さらにその根拠として、オランダ国歌がスペイン王への忠誠を意味する歌詞である点を指摘しています。ただし、ネーデルラント地方が特に締め付けの厳しい地域であったというのは事実のようで、オランダの歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
ハプスブルクネーデルラント」の項から、ルターの破門時期と重なる1520年代初頭から異端審問が開始されているとの事実を拾えます。目ざめよ72年12月22日号P22では、カール5世の40年近い治世中に、この地域で異端審問を理由として命を落とした人の数を、5万~10万人と推定されると指摘しています。


では改めまして、信仰義認とは何なのか。これはルターを通して広められた、プロテスタントの柱と言われる教理の1つで、ネットで調て全貌を掴むどころか、調べれば調べるほど定義があやふやになっていきました。はっきり言ってしまうと、ネット上ではこの「柱」とさえ言われる主張を、第三者の目から見て容易に理解できるような解説をしているところがありません(それでいいのかプロテスタント^^;)。そうした中で目についたのが、Wikipediaの「義認の教理に関する共同宣言」という記事から外部リンクされている、

「義認の教理についての共同宣言」の調印(PDF)リチャード・ジップル
http://www.nanzan-u.ac.jp/TOSHOKAN/publication/katholikos/katho13/katho13.pdf

の解説です。これはカトリックとルーテル派の代表者同士の間で1999年に合意された共同宣言についての解説なのですが、pdfファイルをいちいちダウンロードしてまで読むのめんどくさ~い、という人のために重要部分を抜き出すと、

論争の核心は、信者は神の恵みへの信仰のみによって義とされる(救われる)のか、あるいは救いには善行が伴わなければならないのか、ということであった。ルターは、信者は神の恵みの働きへの信頼のみによって義とされ(救われ)、その後精神や道徳を向上させる必要があるが、それは2次的なものであり、義認・救いには何の貢献もしない、と主張した。(中略)共同宣言では、義認は信仰によってのみ得られるが、善行は信仰のしるしだと確認している。

とのことです。

また、「源流を探る(2)-教理の原点」を書き上げた時には、外部資料から説明する事に注意を向けていたので気づかなかったのですが、対立構造成立過程の作成、不明瞭な部分を補える情報が無いかと調べていくうちに、ものみの塔の中にわかりやすい表現を見つける事ができました。「信仰を通して得られる恩寵のみによる義認」(塔85 12/1 P6)とのことで…なんだ最初からエホバの証人の出版物にあたってたほうが理解が早かったやん、などと感じてしまいましたよ。