エホバの証人にまつわる歴史探求ブログ

方向性については現在思案中

神名の発音問題

だいぶ長いこと放置していましたが、こちらはさほど複雑な問題でもないのでササッと書き上げてしまいます。

発音問題というと、エホバは間違いで正確にはヤハウェだ、という議論がなされるのが一般的な傾向としてあるように思います(主にエホバの証人を批判する側の人が喜々としてそうした方向へと議論を誘導したがるようです)。ただ、エホバの証人はそんな事は全くといっていいほど重要視していません。あくまで発音すべきか否かの方に関心を向けているのです。私がこの事実に気づかされたのは『神の御名』というブロシュアー(小冊子)を読んだ時なのですが、そこではタルムードの解説が載せられており…とか書くと異教の文章がどうたらこうたらで背教だ異端だなどと言われそうな気もするんですが、実はそのブロシュアーと同じ内容は『洞察』にも記載されていて、エホバの証人由来の情報である点についてはネットで簡単に裏付けが取れたりします。

https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200002391#h=14

ミシュナの最初の部分には,「人は[神の]み名[を使って]仲間とあいさつすべきである」という積極的な命令もあり,その後にボアズの例(ルツ 2:4)が引き合いに出されています。―ベラホット 9:5。

つまりこの問題で焦点となるのはルツ記2章4節の聖句という事になるのでしょう。ルツ記は全てのクリスチャンが正典として認める書ですから、この問題点を論ずるに能わずと反対する人はまずいないと思います。では具体的な文章で確認してみるとしましょう。

文語訳旧約聖書(1953)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%84%E8%A8%98(%E6%96%87%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#2:4

時にボアズ、ベテレヘムより來り その刈者等刈者等に言ふ ねがはくはヱホバ汝等とともに在せと 彼等すなはち答てねがはくはヱホバ汝を祝たまへといふ

口語旧約聖書(1955)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%84%E8%A8%98(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#2:4

その時ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。

文語訳に従えば、ダビデ王の曽祖父にあたる人物ボアズと彼の畑の労働者たちは、神名を用いて挨拶を交わしていた事になります。しかし口語訳では挨拶の言葉を主と発音していたかのように読めます。

この辺の事情に疎い人にもわかりやすく説明しますと、ユダヤ教では原文に神名が出てくると、そこはアドナイ(主)と言い換える風習があります。神名をみだりに発音してはならないという十戒の教えを忠実に守ろうとするからです(ただしこれは、原文に手を加えるような野暮な真似はしないという事の証明ともなっています)。ところが一般的なキリスト教ではそこから一歩進んで?、神名の部分を主という別文字に置き換えてしまいます。その数、実に6000回以上(笑)。しかしこれだと、原文が元々主であったのか、神名を置き換えた結果主となったのかの判別がつかなくなるため、置き換えの事実があったことを示すなんらかのサインを残すような工夫がなされる事もあります。具体的には、英語だったらLORD(神名)とLord(主)のような違い、日本語だったら(神名)と主(主)のようにアンダーラインの有無で違いを暗示したりするような事例が認められるらしい(判別できないと、詩篇110篇1節のように両者が混在する文では奇妙奇天烈な表現となります)。

上記で引用した文語訳(神名)と口語訳(主)が異なる理由については3つのパターンが考察できます。1.文語訳が誤訳、あるいは恣意的な訳である可能性(原文は主)、2.webという媒体に転載する際にアンダーラインの重要性を知らない転載者によって記載が漏れた可能性(原文は神名)、3.原文は神名なのだけれどもその違いを明確にする事を軽視する翻訳者によって最初からアンダーライン抜きで訳出された可能性(原文は神名)。もののついでなので、英語の聖書についても幾つか調べてみます。

Bishops' Bible(1568)
https://en.wikisource.org/wiki/Bible_(Bishops%27)/Ruth#Chapter_2

And beholde, Booz came from Bethlehem, and sayde vnto the reapers: The Lorde be with you. And they aunswered him: The Lorde blesse thee.

Lordeなので主

欽定訳(1769版)
https://en.wikisource.org/wiki/Bible_(King_James)/Ruth#Chapter_2

And, behold, Boaz came from Bethlehem, and said unto the reapers, The LORD be with you. And they answered him, The LORD bless thee.

LORDなので神名

欽定訳(1911版)
https://en.wikisource.org/wiki/The_Holy_Bible,_containing_the_Old_%26_New_Testament_%26_the_Apocrypha/Volume_1/Ruth

And, behold, Boaz came from Beth-lehem, and said unto the reapers, The Lord be with you. And they answered him, The Lord bless thee.

Lordなので主(同じ欽定訳でも違いがあるようです)

アメリカ標準訳(1900)
https://en.wikisource.org/wiki/Bible_(American_Standard)/Ruth#2

And, behold, Boaz came from Bethlehem, and said unto the reapers, Jehovah be with you. And they answered him, Jehovah bless thee.

Jehovahなので神名

World English Bible(1997)
https://en.wikisource.org/wiki/Bible_(World_English)/Ruth#Chapter_2

Behold, Boaz came from Bethlehem, and said to the reapers, "Yahweh be with you."

They answered him, "Yahweh bless you."

Yahwehなので神名

The Free Bible(2006)
https://en.wikisource.org/wiki/Translation:Ruth#Chapter_2

Now Boaz came from Bethlehem. He said to the harvesters, "Yahweh be with you!", and they said to him, "May Yahweh bless you!"

Yahwehなので神名

結局、英語でも2種類あるようです。じゃあ原文も2種類あるのかというともちろんそんな事はありえなくて、だいぶ寄り道しましたが、ヘブライ語で見ればどちらが正しいのか白黒はっきりします。

https://he.wikisource.org/wiki/%D7%91%D7%99%D7%90%D7%95%D7%A8:%D7%9E%D7%92%D7%99%D7%9C%D7%AA_%D7%A8%D7%95%D7%AA_%D7%9B%D7%99%D7%93_%D7%94%D7%9E%D7%9C%D7%9A_-_%D7%A4%D7%A8%D7%A7_%D7%91

ד וְהִנֵּה בֹעַז בָּא מִבֵּית לֶחֶם וַיֹּאמֶר לַקּוֹצְרִים יְהוָה עִמָּכֶם וַיֹּאמְרוּ לוֹ יְבָרֶכְךָ יְהוָה.

יְהוָהなので神名

と、このようにボアズたちの交わした挨拶の言葉が原文では神名になっており、すると当時は神名を当たり前のように発音していたんじゃないかという疑問が当然のように湧いてくるわけです。アドナイと発音していたのであれば文字通りアドナイと書いておけば何の混乱もないのに、挨拶の言葉として「発言されたはずの部分」にわざわざ神名を用いているわけなのですから。そのようなこともあって、ユダヤ教で発音を避けるのは、みだりに発音してはならないの「みだり」の意味を取り違えてしまったためであって、本来は積極的に発音すべきものだというのがエホバの証人の考える「神のご意思」というものとなるわけです。

さて、「我々は積極的に発音しよう」、と決まりました。どんな発音が相応しいのかの問題はエホバの証人の間ではここにきて初めて意味を成します。ただ、最初に書いた通り、エホバの証人はこちらの問題に関しては全くといっていいほど無関心です。なぜか、正確な発音がそんなに重要なのであれば、神がその発音を保存する努力を怠るはずがない、ところが現実には保存されているとは言い難いのだから、神にとって発音それ自体はさほど重要ではないのだろう、といった解釈へと至るからです。だからその地域で伝統的に用いられてきた名称があればそれが優先的に採択されたとどこか(『ふれ告げる』だったか?)で説明されていたはず。それが日本ではたまたまエホバだった、とこういうわけです。また、神名を用いるべきか否かという重要な問題をなおざりにしたまま、正確な発音はどうだったかというような(結論の出るはずのない)空虚な議論ばかりに終始して他人を批判する道具として神名を貶めるのはどう考えても肉の業であり、愛ある神に倣う行いとは考えにくい(クリスチャンらしからぬ行動である)、というような反論もしていたような気がします。

源流を探る(番外編)-信仰義認、ルターの宗教改革と宗教対立形成の過程

エホバの証人とはほとんど、全くといっていいほど関係ありませんが、ちょっと根が深い問題のようなので、まとめてみることにしました。まず、対立構造の形成過程についてですが、これは年代順に羅列してしまいます。そうしたほうが理解が早いと思いますので。


1511年、エラスムスは『痴愚神礼賛』を発表。後にこれはカトリックにおける禁書となる。

時期不詳、ルターはローマの聖句の研究から、信仰による義認との閃きを得る。後にこれは「塔の体験」と呼ばれる。

1516年、エラスムスによるギリシャ語訳聖書(新約のみ)が発行される。

1517年10月31日、贖宥状販売の問題をめぐってルターがまとめた『95ヶ条の論題』の中に義認の主張が盛り込まれる。ラテン語で書かれていたこの『論題』は一般人には理解できないはずであったが、ルターの意思とは裏腹に、ドイツ語訳が作成され、1518年1月には頒布されるに至る。こうしてルターの信仰義認という考えが大衆にも周知される。なお、ものみの塔87年9月15日号P27ではその後の展開として、14日間でドイツ全土に、4週間でキリスト教世界全体に広まったとするフリードリヒ・エーニンガーの言葉を引用しています。

1518年4月、ルターは総会で自説を熱弁、教皇にも意見書を送る。神学者シルヴェストロ・マッツオィーニがこの意見書を精査し、教皇の権威を揺るがしかねないとルターの思想の危険性を指摘、その回答はルターにも送られる。

1518年、レオ10世の教皇勅書によって、それまで曖昧だった贖宥の定義が明確に示される(塔87 9/15 P28)

恐らくこの頃、ルターが自分を尊敬している事実を知っていたエラスムスは、信仰義認との考えに賛同すると共に、分派を作らないようにと忠告する。

1518年、エラスムスカトリック内部の腐敗を風刺する論文、『対話集』を発表(塔82 12/15 P10)

1519年7月、「ライプチヒ討論」。1週間に及ぶヨハン・エックとの公開討論会において、ルターは教皇の権威を否定し、コンスタンツ公会議で異端とされたヤン・フスの主張の一部を擁護。この討論会は事実上、ルターの敗北であったとの見方が強い。

1520年、ルターは、『ドイツ貴族に与える書』(万人祭司)、『教会のバビロニア捕囚』、『キリスト者の自由』の宗教改革三大文章、後のプロテスタント信仰の基盤となる論文を次々と発表。『バビロニア捕囚』はラテン語で書かれていたが、ルターの思想の過激さを世間に知らしめる目的から反対者の手によってドイツ語翻訳され、かえって民心を煽る結果となる。

1520年6月15日、教皇レオ10世は大勅書を発布。異端の書物の印刷・販売・閲覧を禁止する(塔95 4/15 P11)

1520年12月10日、ルターは勅書を公衆の面前で焼き捨てる(目84 12/8 P22、探求 P316)

1521年、イタリア戦争勃発(~1525年、対フランス戦)

1521年、ルターはカトリックから破門される。

1521年、ヴォルムス帝国議会神聖ローマ皇帝カール5世の要請に対し、ルターは自説の撤回を拒否。帝国アハト刑(事実上の死刑宣告)が適用される。

1521年、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世は「誘拐」との名目でルターを居城に匿う。軟禁状態に置かれたルターは、ドイツ語訳聖書の翻訳を開始する。戦争への影響も懸念されたため、皇帝側としては強く反対できなかったのであろうというのが一般な見解。

1522年、ルターはエラスムスによるギリシャ語訳聖書を元に作成した『9月聖書』(新約のみ)を完成させ、ユンカー・イェルクの偽名を用いて頒布を開始する。

1522年、エラスムスによるコンプルートゥム多言語訳聖書(聖書全巻)の完成(塔82 12/15 P10)

1523年、教皇ハドリアヌス6世は教皇庁内の腐敗を認め、ローマ教皇庁の改革を提案する(塔98 3/1 P4)。~ここで提起されたのは、贖宥・結婚の解除の2点

この頃までに、エラスムスの影響を受けたとされるツヴィングリらによるスイスの改革派の問題も顕在化する。改革派における宗教改革の波は、実際にはルターの改革と平行するように起こっているが、こちらは政治的な地盤固めを推進する事によってカトリックの勢力を徐々に排除していく形で成立したようであり、成立年を明確に述べている資料は存在しないようです。ハドリアヌス6世の示した「結婚の解除」とは、改革派への譲歩か?

1524年、ドイツ農民戦争(~1526年)。ルターの思想に触発された農奴たちによる蜂起であったため、ルターは彼らに同情し調停を試みるも、調停が不調に終わると一転、諸侯に対し「狂犬と同じように」打ち殺すようにと鎮圧を勧告する(目79 12/8 P8)

1524年、エラスムスは『自由意志論』を著し、信仰義認は善行を無にする教えであり、神への猜疑心、ならびに、人々を絶望へといざなうものであるとして批判。塔82年12月15日号P11はその根拠について、「人間に自由意志がないとするならば人は自分の救いに通ずるような仕方で行動できないことになり,神を不義な方にすることになる」と説明しています。

1525年、改革派の、国家の権威を認める思想に同調できない者たちが分離独立、再洗礼派と総称される様々な分派を形成していく(目89 8/22 P19)

1525年、ティンダルの英語訳聖書(新約のみ)がケルンで発表される。この聖書もエラスムスによるギリシャ語訳聖書を元に作成された。

1525年6月、ルターは元修道女、カタリナ・フォン・ボラと結婚する。

1525年末、ルターは『奴隷意志論』で、エラスムスが前提とした自由意志そのものの意義を否定。

1526年、エラスムスはさらに『反論』を著す。

1526年8月、第一回シュパイアー帝国議会オスマン帝国に対する脅威から、ルター派への譲歩案が示される。

1529年4月、第二回シュパイアー帝国議会。前回の譲歩案が取り消される。ルター派はこのことに抗議、プロテスタント(抗議)の語が初めて使用される。

1529年、ヘッセン方伯フィリップ1世(寛大伯)の招きに応じ、マールブルク城においてルターとツヴィングリの会見が実現する。聖餐の解釈をめぐって、ルターとフィリップ・メランヒトン、ツヴィングリとエコランパッド、双方の主張の溝は埋まらず、フィリップ1世は両者が合意をみた信条のみ書面にまとめる事を提案する(目70 5/22 P20)。まとめ上げたのはメランヒトンで、これが「アウクスブルク信仰告白」の草案となったらしい。

1530年、帝国議会にて「アウクスブルク信仰告白」の草案が提示される。皇帝側はこの受け入れを拒否するも、事実上、初のプロテスタント教会がここに誕生する。

1531年、カトリックによる資産返還要求が皇帝に承認される。資産返還を拒むルター派勢力によって反カトリックを掲げるシュマルカルデン同盟が成立し、カトリック追放の動きがドイツ国内で広まる。翌年にはフランスもこの同盟に加わる。

1531年、ツヴィングリによる『チューリッヒ聖書』(聖書全巻)の発表。

1531年、チューリッヒによる経済封鎖に耐えかねたカトリック5州がカッペルに進軍。10月11日、ツヴィングリ戦死。

1534年2月23日、再洗礼派がミュンスターの実権を掌握する。

1534年、『ルター訳聖書』(聖書全巻)が一応の完成をみる。

1534年10月、「檄文事件」。それまでプロテスタントに対して寛容であったフランスは、弾圧する側へと転換する。

1534年11月、ヘンリー8世の首長令が制定される。イングランドカトリックと決別する道を選び、英国聖公会が誕生する。

1535年7月、エラスムスの盟友、トマス・モアは首長令への宣誓を拒み、斬首刑に処される。

1536年3月、カルヴァンは『キリスト教綱要』を発表(予定説を含む)。

1536年7月、エラスムス死去。

1536年10月、ティンダルは焚刑に処される。

1542年、イタリア戦争再燃(~1546年、対フランス・オスマン帝国戦)。これに呼応するようにシュマルカルデン同盟が蜂起。

1543年、ザクセン公モーリッツが選帝侯の地位を条件にシュマルカルデン同盟から離脱。皇帝側に味方する。

1546年2月、ルター死去。

1546年7月、シュマルカルデン戦争(~1547年)。ルター派勢力の敗北。

1548年5月、カトリック側に有利な条件で、アウクスブルク仮信条協定が締結される。

1552年3月、仮信条協定の受諾に応じないマクデブルクを攻めるよう指示されたモーリッツは、フランス王アンリ2世と手を組み、皇帝カール5世を攻撃し敗走させる。

1552年8月、バッサウ条約の締結。ルター派が容認される。

1555年9月、アウクスブルクの和議。ルター派の容認が議決される一方で、カルヴァン派(改革派)は引き続き糾弾される。

1559年6月、カトリック信者として育ったオラニエ公ウィレム1世は、スペイン王フェリペ2世によるプロテスタント信者虐殺の計画をフランス王アンリ2世から告げられると、本心を秘したまま領地へと戻り、虐殺の実行部隊との説明を受けていた駐留中のスペイン軍に対する駐留反対運動を煽る。後にオランダ独立の父と呼ばれるようになるウィレム1世は、この故事から「沈黙公」の名でも知られるようになる(俗説)。

1562年、ユグノー戦争(フランス)。1572年のサン・バルテルミの虐殺が有名。

1562年、贖宥状の販売が禁止される(塔87 2/15 P21)。この時禁止されたのは販売だけで、贖宥の授与に関しては近年まで続いているとの事。どれくらい近年までなのかというと、教皇の名において年3回行われる贖宥について、TVやラジオの生放送なら有効で、録音されたものは無効との規定まであるらしい。現在の最新の実情に関しては不明です。

1563年、トリエント公会議において、信仰義認が糾弾されるに至る。

1567年、アンリ2世の要請により、アルバ公がネーデルラント総督として赴任する。異端審問が強化される。

1568年8月31日、沈黙公はアルバ公に宣戦布告、八十年戦争が始まる。

1618年、三十年戦争(ドイツ)の始まり。


う~む、エラスムスの影響半端無いっす。その他、ポイントとなる出来事についていくつかコメントをば。

1518年4月、総会で自説を熱弁
カトリック側の視点からすれば、これはルターが自ら進んで墓穴を掘ったとの見方も可能です。なぜなら文字通りの分派工作ですので。一方、宗教改革を支持する側からすれば、「石が叫ぶ」の聖句の通り、黙って見過ごす事などできなかったのだ、という事になるのでしょう。

1519年7月、「ライプチヒ討論」
こちらはカトリックの側がルターを積極的に追い詰めた、と言い換える事ができるかもしれません。この出来事さえなかったならば、まだ穏便に丸く収める事も可能であったのではないかと。カトリック寄りの主張をする人達の間では、このあたりからの批判が目立つように思われます。

1523年、教皇ハドリアヌス6世の改革
両者の分裂は1521年ルターの破門の時にすでに決していたと言ってもいいわけですが、ものみの塔はこのハドリアヌス6世の行動を、事態を収拾するためのものとして説明していました。結果、枢機卿達の反対に遭って改革は頓挫したわけですが、破門それ自体は前任者の決定ですし、新教皇がそれを取り消す事も視野に動いたとの見方も確かに可能であるのかもしれません。この教皇の在位がもっと長ければ、また違った帰結となったのかもしれませんね。

1559年、沈黙公の蜂起
もしこれが真実であるならば、政治色の一切無い、教派そのものを理由とした戦争(というよりも一方的な虐殺)が行われようとしていたという意味で特筆に価する出来事といえるかもしれません。が実はこれ、wikipediaの日本語版ではそもそも言及がなく、英語版では僅かに触れられているものの出典がありません。また、オランダ語版では多くの歴史家がこれを疑問視していると説明しており、さらにその根拠として、オランダ国歌がスペイン王への忠誠を意味する歌詞である点を指摘しています。ただし、ネーデルラント地方が特に締め付けの厳しい地域であったというのは事実のようで、オランダの歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
ハプスブルクネーデルラント」の項から、ルターの破門時期と重なる1520年代初頭から異端審問が開始されているとの事実を拾えます。目ざめよ72年12月22日号P22では、カール5世の40年近い治世中に、この地域で異端審問を理由として命を落とした人の数を、5万~10万人と推定されると指摘しています。


では改めまして、信仰義認とは何なのか。これはルターを通して広められた、プロテスタントの柱と言われる教理の1つで、ネットで調て全貌を掴むどころか、調べれば調べるほど定義があやふやになっていきました。はっきり言ってしまうと、ネット上ではこの「柱」とさえ言われる主張を、第三者の目から見て容易に理解できるような解説をしているところがありません(それでいいのかプロテスタント^^;)。そうした中で目についたのが、Wikipediaの「義認の教理に関する共同宣言」という記事から外部リンクされている、

「義認の教理についての共同宣言」の調印(PDF)リチャード・ジップル
http://www.nanzan-u.ac.jp/TOSHOKAN/publication/katholikos/katho13/katho13.pdf

の解説です。これはカトリックとルーテル派の代表者同士の間で1999年に合意された共同宣言についての解説なのですが、pdfファイルをいちいちダウンロードしてまで読むのめんどくさ~い、という人のために重要部分を抜き出すと、

論争の核心は、信者は神の恵みへの信仰のみによって義とされる(救われる)のか、あるいは救いには善行が伴わなければならないのか、ということであった。ルターは、信者は神の恵みの働きへの信頼のみによって義とされ(救われ)、その後精神や道徳を向上させる必要があるが、それは2次的なものであり、義認・救いには何の貢献もしない、と主張した。(中略)共同宣言では、義認は信仰によってのみ得られるが、善行は信仰のしるしだと確認している。

とのことです。

また、「源流を探る(2)-教理の原点」を書き上げた時には、外部資料から説明する事に注意を向けていたので気づかなかったのですが、対立構造成立過程の作成、不明瞭な部分を補える情報が無いかと調べていくうちに、ものみの塔の中にわかりやすい表現を見つける事ができました。「信仰を通して得られる恩寵のみによる義認」(塔85 12/1 P6)とのことで…なんだ最初からエホバの証人の出版物にあたってたほうが理解が早かったやん、などと感じてしまいましたよ。

源流を探る(2)-教理の原点

エホバの証人の教理は借り物だ、という叩き目的の主張が昔から存在します。実はこの見解、全く正しかったりします。『ふれ告げる人々』49ページにはこうあるからです。

彼はこう説明しています。「我々の仕事は……長いあいだ散らばっていた真理の断片を集め寄せ,それを新しいものでも,我々独自のものでもなく,主のものとして主の民に示すことであった。…(中略)…我々は,宝石のような真理を見つけて配列し直した手柄を自らのものとしてはならない」。ラッセルはこうも述べています。「主が我々の乏しい能力を喜んで用いてくださったこの業は,創作の業というよりは,再構築し,調整し,調和を図る業であった」。

ものみの塔』1993年12月1日号18ページもこの同じ主張を引用し、ラッセルがコリント第一 3:5-7の精神を表したと評しています。つまり、借り物の教理であるとの主張は華麗にスルーされているわけですね。そのことはさておいて、この散らばっていた宝石のような真理の断片、とラッセルが考えたものがどのようなものであったのかについては、上記中略部分に説明があり、羅列すると以下のようになります。

信仰による義認:ルターを通して広まり、多くの教派に認められる
神の公正と力と知恵という概念:長老派で不明瞭ながらも擁護されている
神の愛と同情:メソジスト派で褒め称えられている
再臨:アドベンティスト派が広めている貴重な真理
バプテスマ(形式部分のみ?):バプテスト派において正しく理解されている
革新:一部のユニバーサリストにおいて漠然と理解されていた

他、「神の選び、無償の恩寵、聖化、栄化、復活」が挙げられています。


順番に解説していきたいところなのですが、調べていくと、最初の「信仰による義認」が意外に根が深い問題で、500年近いカトリックプロテスタントの反目の歴史の主因であって、宗教戦争のきっかけとまで説明されていました。書き始めたらかなりの分量となってしまったので、この項目は後日、別項目を立てて詳細に分析してみたいと思います。また今回の主張に関しては、単なる私の勝手な主張に過ぎないなどと言われないように、適当と思える程度に公式へのリンクを張っておきます。


神の公正と力と知恵(長老派)、神の愛と同情(メソジスト)。この2つはまとめて語られ、神の主要な特質は、愛・公正・知恵・力の4つであるとして、今日でもエホバの証人の主張の中に、数多くの実例として認められます。
http://m.wol.jw.org/ja/wol/s/r7/lp-j?q=%E6%84%9B+%E5%85%AC%E6%AD%A3+%E7%9F%A5%E6%81%B5+%E5%8A%9B&p=par

再臨は、目に見えない臨在であると理解の形を変えて、エホバの証人の教理に組み込まれています。実際は、ジョージ・ストーズの主張そのままなんですけれどもね。
http://m.wol.jw.org/ja/wol/s/r7/lp-j?q=%E8%87%A8%E5%9C%A8&p=par

バプテスマバプテスト派と同様、浸礼式が採用され、幼児洗礼についても否定されています。
http://m.wol.jw.org/ja/wol/s/r7/lp-j?q=%E6%B5%B8%E7%A4%BC&p=par
http://m.wol.jw.org/ja/wol/s/r7/lp-j?q=%E5%B9%BC%E5%85%90%E6%B4%97%E7%A4%BC&p=par
違いがあるとすれば、その定義でしょうか?…といっても私、バプテスト派においてなんらかの定義付けがあるのかどうかさえ知らないので、本当に異なるのかまでは確証できませんので(定義が無いなら調べても出てくるはずがない、つまり調べようがないのです)。ラッセルの時代には「聖別」と表現されましたが、今日のエホバの証人は「献身」の語を用います。しかし、意味は同じであると考えていいでしょう。自分自身を神のために取り分けられたものとして差し出す、というのが直接的な意味で、これを噛み砕いた説明として、自分自身のために生きてきたこれまでの生活を改め、神の目的に沿った生活を送る決意を周囲に表明する、といった風に変化します。つまり宣教奉仕に熱心なのは、神の目的に沿って自分自身を差し出している、という解釈になるわけですね。なお、「神のために取り分けられた」という概念は、「神聖」との文字で聖書中に何度も出てきます(400回弱)。
http://m.wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200002055?q=%E7%A5%9E%E8%81%96&p=par
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/122730/m0u/%E8%81%96%E5%88%A5/ 聖別(辞書の定義)
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/70110/m0u/ 献身(辞書の定義)

革新についてはひとまず保留して、神の選び、無償の恩寵、聖化、栄化について。

まず、「栄化」で検索すればわかるのですが、「義化・聖化・栄化」と3つまとめて語られるのが普通なので、聖化と栄化は信仰義認と切っても切れない関係にあります。そして、神の選びは「栄化」と、無償の恩寵は「義認」と密接な関係にあり…つまりこれら全てが関連性の深い言葉という事です。栄化をエホバの証人の言葉で表すと、神との養子縁組の完成、といでも言えばいいでしょうか。つまり油注がれた天的希望を持つクリスチャンが天での生活へと移る事を意味し、だからこそ「神の選び」がここに関係してくる、とこういうわけです。「無償の恩寵」とは新世界訳聖書の表現でいうところの「無償の賜物」、一番意味がよくわかるのはローマ 3章24節の聖句でしょうか。聖書原文を調べればわかりますが、つまりは信仰義認を裏付ける理論そのものです。

聖化についてはプロテスタント各教派で解釈に違いがあるようで、ルーテル派ではまず聖化があってその後に義認が生じるとしているのに対し、メソジスト派はこの逆、まず義認があって、自らを律することによって段階的に聖化し、その過程は死に至るまで継続する、という解釈になるようです。この点に関するエホバの証人の見解はというと…メソジスト派の主張に瓜二つですね。従ってこれらの教理もジョージ・ストーズ経由で学んだという事になりそうです。ちなみに、義化・栄化の2つとは異なり、聖化の語はきちんと聖書に登場します。
http://m.wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200003827?q=%E8%81%96%E5%8C%96&p=par

復活…う~む、これの源流はどこにあるのだろう(笑)。特に復活を主要な教理に掲げている教派というのは無さそうなので、たぶんこれもジョージ・ストーズによるものと思われます。そう考えるべき理由もきちんとあり、実は復活という概念は基本的に、天国や地獄といった概念と相性が悪いのです。その良い例がラザロの復活(ヨハネ 11章)で、死んだラザロはどこに行ったのか、との疑問を考えるとよくわかります。ラザロが天国へ行っていたのだとしましょう。なぜ天国にいるラザロを復活させる必要があったのでしょう。ラザロが地獄へ行っていたのだとしましょう。地獄に落ちるような人間の死をイエスはなぜ嘆き、また復活させる必要があるのでしょう。天国や地獄の教えを有している一般的なキリスト教では、実はこうした質問に明快な回答を示すことができません。
http://m.wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1102005137?q=%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%AD+%E5%9C%B0%E7%8D%84&p=par

革新(アダムの罪のゆえに失われたものの回復)については、『ふれ告げる人々』以外にほぼ言及がありません。ただ興味深いのは、これをラッセルが理解したのが聖書研究を始めてわずか2年目であると同時に、「長いあいだ散らばっていた真理の断片」(つまり他所から拝借した考え)の1つとして挙げている事なんです。先の説明でジョージ・ストーズから学んだのであろうと結論したのはこうした理由からになります。また、ラッセルの時代にはまだ理解されていませんでしたが、この革新という考えが、地上をアダムの子孫で満たすことこそ神本来の目的であるとの理解を生み出し、地的希望を持つヨナダブ級との解釈を生み出した事は言うまでもありません。この天・地2つの希望の表明は、エホバの証人のオリジナルであると一般に考えられているようです。


一通り説明が終わった所で、最後にラッセルが把握していたであろう教派の整理をしておきます。まず、ラッセル自身は長老派の家庭に生まれ、後に組合派に学び、次いで再臨派の思想に触れた事になっています。また、ジョージ・ストーズから、会衆派、メソジスト派、再臨派の、ストーズ自身のバイアスが加味された思想を学んでいるようです。よって、長老派・会衆派(組合派)・メソジスト派・再臨派の4つについてはそれなりの知識を持っていたのでしょう。

長老派
改革派から派生した教派。改革派はフランスのカルヴァンを源流とするため、教理には予定説が含まれる。予定説においては、救われる者、救われない者があらかじめ定まっているとされ、さらには救いがすでに確定していて取り消される事はないとも教えているため、人間の努力部分がルーテル派以上に軽視されている、との見方があります。

会衆派(別名、組合派。会衆派が正式名称らしい)
イギリスの清教徒革命時に生まれた教派の1つ。万人祭司というプロテスタントのもう1つの柱とされる教理が重視されるという特徴があるようで、長老の必要性をラッセルが認めるまでに時間がかかった事や、長老の地元選出制が採択された背景には、ラッセルがこの教派に学んだ影響があったのではないか、と仮定調で説明されています。実際、会衆の設立が説かれたのが1879年、長老の必要性が説かれるのが1895年と、16年の時間的開きが存在します。

メソジスト派
会衆派と同じくイギリスで生まれましたが、成立時期はやや遅れ、清教徒革命の影響を受けたと解説されるものの、会衆派とは別時系列で語られるのが普通です。教派名はメソッドという言葉に由来するそうで、教会員の間に認められる几帳面な行動を揶揄したもののようです。カトリック聖公会などと比較した場合に、より保守色が強い、と言い換えてもいいのでしょう。

再臨派
18世紀のアメリカ、ウイリアム・ミラーの再臨思想に共感した人々の集まりで、ミラー自身はバプテスト派の出身であったようですが、成員には多くのメソジスト派出身者が含まれており、当時のアメリカにおけるキリスト教分布をそのまま圧縮したような構成に近かったのではないかと思われます。年代計算で再臨の時期を特定しようとする特徴が認められる以外、他に特徴があったのかすら不明です。ミラーが示した1844年に何も起こらなかったため、そこから数々の分派が生じましたが、最大の人数を誇った福音アドベント教会は間もなく解体、信者の大半はそれぞれ元所属していた教派へと戻って行ったそうです。なお、2番目の成員数を誇った組織が、セブンスデー・アドベンチスト派の名で今日でも活動しています。

とまぁ、再臨派の中にバプテスト派(会衆派と同時期に清教徒革命にて生まれる)も含まれているわけで、バプテスマについてもジョージ・ストーズ経由という事になりそうです。これにて一件落着。

源流を探る(1)-ジョージ・ストーズという人物について

まず、私の結論から先に書いてしまいます。C・T・ラッセルは初期の教理形成の過程において。その神学の多くをジョージ・ストーズから学んだらしいという事になりそうです。これは、直接師事した、というよりも、ストーズの発行した雑誌、『バイブル・イグザミナー』の研究によるのだろうと思っています。つまり、少人数で始まった初期の聖書研究の参考書として、『バイブル・イグザミナー』誌を用いたのではないかということです。もちろん物証はありませんが、状況証拠なら示すことができます。

まず、ジョージ・ストーズとはどんな人物だったのか。直接関係する部分だけWikipediaから拾い出してみます。

http://en.wikipedia.org/wiki/Adventist

The Life and Advent Union was founded by George Storrs in 1863. He had established The Bible Examiner in 1842.

Life and Advent Union (「人生と再臨連合」とでも訳すべきか…)は、1863年、ジョージ・ストーズによって設立された。彼は1842年の『バイブル・イグザミナー』によって認められていた。

http://en.wikipedia.org/wiki/John_T.Walsh(Adventist)

They contended that Christ had returned on October 22, 1844, only invisibly, and that the Millennium had begun on that date.

彼(ジョン・T・ウォルシュ)らは、その日、目に見えない形で千年王国が始まり、1844年10月22日にキリストが戻ったと断言する。

Walsh was then an associate editor of the Bible Examiner, an Adventist periodical published in New York City and edited by George Storrs.

ウォルシュはそのころ、ニューヨークでジョージ・ストーズによって発行されていた再臨派雑誌、『バイブル・イグザミナー』の副編集者であった。

Walsh's and Storrs' differences to the beliefs of the main body of Adventists resulted in their finally forming a separate denomination, the Life and Advent Union, on August 30, 1863.

ウォルシュとストーズには再臨派の主要な信条に対する異なる見解はあったものの、1863年8月30日、彼らは最終的に、Life and Advent Union の分派を形成している。

http://en.wikipedia.org/wiki/George_Storrs

A Congregationalist since age 19, George Storrs was received into the Methodist Episcopal Church and commenced preaching at age 28; by 1825 Storrs had joined their New Hampshire Conference.

会衆派の一員であるジョージ・ストーズは、19歳よりメソジスト監督教会に迎えられ、1825年、ストーズは彼らのニューハンプシャー会議に加えられると、28歳で説教を開始した。

In 1837 he found a copy of a pamphlet by Henry Grew on a train, concerning the doctrines of conditional immortality (the non-immortality of the soul), and hell. For three years he studied the issues on his own, only speaking about it to church ministers. However, in 1840 he finally resigned from the church, feeling he could not remain faithful to God if he remained in it.

1837年、彼は条件つき不滅(霊魂の非不滅)と地獄の教理に関する、ヘンリー・グルーによる1部のパンフレットを列車で見つけた。3年の間、彼はこの問題について1人で研究し、ただ教会の牧師たちだけに語ることにした。しかしながら、そのままそこに留まっていたならば、神への信仰に留まる事はできないと感じていた彼は、1840年、ついに教会から辞職した。

Storrs became one of the leaders of the Second Advent movement and affiliated with William Miller and Joshua V. Himes.

ストーズは第二次再臨運動のリーダーの1人となり、ウイリアム・ミラーやジョシュア・V・ハイムズと交際した。

これらの情報から明らかになるのは、(1)ストーズが、会衆派、メソジスト派、再臨派の3つの教派の教理に通じていたであろう事。(2)ウォルシュと共同で分派を立ち上げたストーズは、再臨が目に見えないとする信条を有していたであろう事。(3)『バイブル・イグザミナー』刊行前からすでに、不滅の魂の否定、地獄の否定などの信条を有していたであろう事。といったところでしょうか。C・T・ラッセルが少年時代に聖書への信頼を失ったのは、まさにこの地獄の教理の存在にあるので、それを否定し、教派にとらわれない幅広い見解を示す事が可能な立場にあったストーズの雑誌は、ラッセルの心を捉えるのに十分な資質を備えていたという事になりそうです。また、年表より引用すると、

1872年

贖いと革新(アダムの罪のゆえに失われたものの回復)の関連性に着目。ラッセルは贖いの教理の重要性を大きく認識する(告 P131,46)

という事実があるのですが、この「革新」という概念、元々は一部ユニバーサリストの中に見出されるとの解説が『ふれ告げる人々』P49にあり、聖書研究会を立ち上げて2年、まだ20歳そこそこに過ぎない青年が、インターネットも無い時代にどうやってそのような理解に至ったのか、という大きな難問にぶつかります。しかし、ストーズは当時75-6歳。そうした知識も持ち合わせていたとしても何の不思議もないのです。また、聖書研究開始からわずか5年、『朝の先触れ』に接する以前にラッセルが目に見えない臨在の理解に到達していたという点についても、ストーズ経由で学んだと仮定するならば難なく説明できてしまいます。あとは、再臨派に身を置きながらも、ストーズ自身は年代計算に対する興味を失っていたらしい事が『ものみの塔』2000年10月15日号 P25-30に書かれており、

http://m.wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2000766

そうした考えが、ラッセルの年代計算に対する軽蔑という態度に影響を与えていたのではないかという仮説すら成り立ちそうです。

最後に、アメリカの歴史における、メソジスト派の立ち位置についても解説しておきましょう。現在、合衆国で成員数第一位を誇るのは、福音主義に属するバプテスト派です。メソジスト派は現在、成員数に関しては第二位、主流派の中では最大勢力を誇るようです。19世紀の始め頃にはすでに、この2つの教派が他の教派を成員数で圧倒していた形であり、1860年の時点では、バプテスト派よりもメソジスト派の方が多かったようです。

プロテスタントカトリック「アメリカ生活e-百科」内のページ

http://www.jlifeus.com/e-pedia/10.culture&society/03.religion/ptext/02.protestant.htm

人口比率ではないものの、近年の成員比率を知るための参考となるほか、おおまかな特徴を知る助けとなるものと思います。

http://en.wikipedia.org/wiki/Methodism

4.5 North America の項に、成員数の変化を示すグラフあり

教理年表

組織化以前

1869年
チャールズ・テイズ・ラッセル18歳。ペンシルバニア州アレゲーニー(現、ピッツバーグ市内)で、アドベンティスト派の牧師ジョナス・ウェンデルの説教を聴き、聖書への確信と情熱を取り戻す(76年鑑 P34-35、告 P43)

1870年
ピッツバーグアレゲーニーに暮らす、6人の若者達による聖書研究会が組織される(告 P44、76年鑑 P36)

1870-1875年
不滅の魂の否定。他、キリストの再来は目に見える再臨ではなく、目に見えない臨在であるとの結論に至る(告 P44-45)

1872年
贖いと革新(アダムの罪のゆえに失われたものの回復)の関連性に着目。ラッセルは贖いの教理の重要性を大きく認識する(告 P131,46)

1876年1月
臨在について述べる『朝の先触れ』誌(編集者:ネルソン・H・バーバー)に見解の共通性を見出したラッセルは、「時に関する預言が、実際には、主が王国を設立するために見えない様で臨在する時を示すためのものであったという事があり得るだろうか」との一つの可能性に辿り着き、これまで軽蔑してきた年代計算に熱烈な興味を抱く(告 P46)
※「軽蔑」の語は差別的表現とも言えますが、意味を正確に伝えるために、あえて原典の表現をそのまま使用しています

1876年
ラッセルは宣教を開始する。蒔いた種に水を与える必要があると感じた彼は、月刊誌の果たす役割に着目し、資金難から休刊していた『朝の先触れ』誌の復刊を援助し、自らも副編集者として寄稿するようになる(告 P47,48)

1876年
『バイブル・イグザミナー』誌(編集者:ジョージ・ストーズ)、10月号において、ラッセルは「異邦人の時の終わり」が1914年であるとする見解を示す(告 P135)

1879年5月3日
革新の概念を否定するバーバーとの確執が決定的なものとなる。『朝の先触れ』誌からの撤退(告 P47-48,131)

1879年7月
ラッセル自身が編集責任者を務める『シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者』誌の創刊(告 P47-48)

組織化以降

1879-1880年
少人数のクラス、あるいはエクレシア(会衆)が設立される(年鑑76 P38-39)

1881年2月16日
ものみの塔聖書冊子協会の設立(告 P576)

1881年4月
コルポーター(聖書文書頒布者)の募集が始まる(告 P284)~宣教は自発的参加

1882年6月
三位一体の否定(告 P123-124)

1886年4月28日
アレゲーニーにおいて、主の記念式が初めて祝われる(告 P55)

1886年
『世々に渉る神の経綸』において、聖別(献身)の解釈が示される(告 P291-292,719)

1889年?
地獄の否定(告 P128)

1895年11月
成員の増加に伴い、会衆を指導する長老の必要性が示される(告 P205-207)~選挙による地元選出制

1904年
『新しい創造物』において、会衆を清く保つために必要な処置を取る必要性が説明される(告 P186-187)~排斥の手順が示されるまでの間、教会裁判の規範となる

第一次世界大戦中(1914-1918)

1916年
ラッセルは長老の選出時に一部で見受けられる醜聞に懸念を表明(告 P208-209)

1916年10月31日
初代会長ラッセル死去(告 P64)

大戦後

1919年
長老とは別に、奉仕の主事が協会から任命される。奉仕報告の始まり(告 P212)

1920-1926年(目だった教理上の変化は無いものの、宣教の必要性が盛んに喚起された時期)

1926年1月
神のみ名をどう扱うべきかに関して注意が向けられる(告 P124)

1929年6月
上位の権威の理解の調整。上位の権威とはイエス・キリストを指すと解される(告 P147)~兵役拒否の実質的教理化

1931年7月26日
エホバの証人の名称が採択される(告 P155-156)

1932年
『証明』第3巻において、エホバの証人以外に、地上での生活を享受する者がいると解説される(告 P83)~ヨナダブ級

1934年8月
ヨナダブ級もバプテスマを受けるべきであるとの見解が示される(告 P83)

1935年5月
ヨナダブ級は大群衆であるとの見解が示される。また、エホバの証人と同じ責務を負うとも説明される(告 P83-84)

1935年
『忠節』において、神以外へ身をかがめる事を非とする十戒の言葉に注意が向けられる(告 P197)~国旗敬礼を偶像崇拝と位置づける

1938年2月
主の記念式に、ヨナダブ級も「見守る者」として出席するよう招待される(告 P243)

1938年6月
長老の認定方法が、協会からの任命制へと改められる(告 P218-220)

第二次世界大戦中(1939-1945)

1942年1月8日
2代目会長ラザフォード死去(告 P89)

1942年7月
大群衆もまた、エホバの証人であるとの見解が示される(告 P83)

1942年9月18-20日
緋色の野獣(国際連盟)は再び起き上がるとの見解が示される(告 P262、啓示 P246-8)

1942年9月24日
海外宣教の担い手を育成するための取り決めが、理事たちの満場一致で承認される(告 P94-95,522)~ギレアデ

1944年5月
排斥を審理する際の手順が定められる(告 P187)

1944年12月
輸血に関する否定的見解が示される(告 P183)

大戦後

1947年1月
一夫多妻制の否定。事態に対処するための6ヶ月の猶予期間が設けられる(告 P176)

1961年
輸血を拒否しない者に対し、排斥が適用されるようになる(告 P184)

1962年11-12月
上位の権威の理解の再調整。政府への相対的な服従との概念が示される(告 P147)

1967年
一部地域で始まっていた、バプテスマの資格の有無を審査する取り決めが、世界的に適用されるようになる(告 P479)

1973年9月
喫煙者に対する最後通牒。事態に対処するための6ヶ月の猶予期間が設けられる(塔73 9/1 P531-534、宣 74/2 P3)


教理のおおまかな変遷はこんなところでしょうか。年代の特定に至っていない一部教理(バプテスマ、宇宙主権の論争)などはあえて記述していません。なお、年代計算絡みの教理の変遷についてはあえて取り上げておらず、今後も取り上げるつもりはありません。そうしたものはむしろエホバの証人の反対者が好んで取り上げる傾向があり、年代計算に特化した年表というのは探せばいくらでも見つかるからです。

エホバの証人の教理について考える際に重要となるのは、教理が流動的であるという事です。これは、過去の同じ言葉に現在の解釈をそのまま当てはめると、全く的を外したものになりかねない、という事をも意味します。例えば「エホバの証人」という言葉1つをとっても、最初は天的希望を抱く者だけがエホバの証人でしたが、後にこの表現は地的希望を抱くヨナダブ級を含むようになり、さらに近年ではバプテスマを受ける前の伝道者はもちろん、まだ伝道者の資格がない人であっても、本人がエホバの証人であると自認しているならば、その人もまたエホバの証人である、という解釈へとシフトしています。

時折、アドベンティスト派という部分を全てセブンスデー・アドベンチスト派に置き換えて説明する人もいますが、単に「アドベンティスト派」とだけ表現される場合には、ウィリアム・ミラーの再臨思想に影響を受けて誕生した数々の教派が含まれるのが普通で、そうした説明は事実と異なる可能性がある事にも注意する必要があるでしょう。例えば『朝の先触れ』の表紙を見たとき、明らかにアドベンティスト派と思われる、とラッセルは述懐していますが、著者のバーバーはセブンスデー・アドベンチスト派が重視しているはずの贖いを軽視し、さらに再臨とは異なる臨在という思想を唱えている事からして、ミラー派に属する人、と捉えた方が妥当であろうと思われるのです。

はじめに

このブログ作成の経緯

以前から、作ろう、作ろう、と思いながらもなかなか実現できなかった、エホバの証人の教理の成立過程を年代順に並べたものが、先日ようやく人に見せられるような形にまでまとめることができました。元々の動機は、会衆や長老などの語はいつごろから使われ始めたのか、という個人的な興味によるものです。せっかくだしネットにでもアップするか~と思って無料のHPをいろいろ調べてみたところ、どうも使い勝手の良さそうなところが1つも無いんですよね…HTMLも書けるけどftpとかめんどくさいし、かといって自動生成のところだと表が使えそうにないし、表が使えないならブログでも十分じゃね?…みたいな感じでいろんな無料ブログの特徴を比較してみてこちらに登録する事に決めた、というのがおおまかな経緯です。


ブログ主の立場

エホバの証人らしいです。らしいというのは、厳密な意味ではどういう扱いになるのかよくわからないからです。いわゆるフェードアウト組なので、集会とかには行ってませんが、信仰そのものを捨てたつもりもないのです。雑誌も定期的に頂いていますが、まず目を通しません(汗)。なので最新の教理などには疎いと思ってください。しかし、雑誌を定期的に届けてくれる兄弟は普通に話しかけてくるので、排斥扱いでない事も確かなようです。

現役バリバリの頃にすでに入手していたライブラリーを所持しており、出版物のページなどについては、そのライブラリーの下部に示された数値をそのまま使っています。書籍の現物もたいていは所持していますが、そうしたページ等の再確認は行っていませんので、もし間違いがある事に気づいたならば、コメント等で指摘して頂けると助かります。


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利用規約ですが
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できるだけ批判されないような情報提示を心がけようとは思っていますが、扱う話題が話題なだけに、いずれは根拠に乏しい批判の書き込みがなされるであろう予感はしております。

批判それ自体は一向に構いません。(1)誰の目から見ても建設的な対話姿勢である事を言動によって示す(上記禁止事項に違反しないよう努める、という事です)。(2)論点を明確に、かつ手短に。(3)1度に扱うのは1つのテーマだけ、そのテーマが収束するまでは別の論点を展開しない。~などのルールを守っていただけるならばむしろ歓迎したいと思います。この辺はモラルの問題なので、本来ならばいちいち指摘するような事でもないはずなんですけどね…。